ころもです。
危機管理の基本中の基本は、
”最悪の事態を想定して準備をする”
これだと信じています。
だからこそ、
先日発生した、宮崎県沖の日向灘M6.3の地震について地震学者などが、「南海トラフ巨大地震との繋がりがない」と断定する言い方には激しく怒りを覚えます。
確実に言えることがあるとすれば、
未来を読み、知ることができる人間は誰もいない
ということです。
だからこそ、「最悪の事態を想定して準備をする」ことに意味があるのだし、物事の「自分たちにとって都合のいい側面でしかない」発言のチョイスに、怒りと胡散臭さしか覚えません。
本気で国民を助ける気はあるのか。
助ける気があるのなら、安心させるだけじゃなく、来るべきときに対処できるように各々準備をすることを促すのが筋。
この国の危機管理能力はドローンとヘリコプターの区別も満足にできないことからそもそも信用していないですが、ここにきて御用学者たちが間違った「安心感」を与えることを納得のいく根拠も示さず発言するなら、そんな言葉を鵜呑みにすることなく、個人レベルでの危機管理、準備を淡々と行って下さい。
現に南海トラフ巨大地震の危機は常にそこにある「危機」のひとつなのだし、
その周辺の地震が無関係であると断言できるほどに地震学に地震があるのなら、なぜに東北大震災のあの大津波やマグニチュードこそ予測できなかったのかと不思議でなりません。
予測できなかったことだけが、確実な現実である以上、今回の地震が南海トラフ巨大地震と「繋がりがあるかどうか」についての正しい答えがあるのなら、それは、
A.繋がりがない、
ではなく、
B.繋がりがあるかないかわからない、可能性は捨てきれない
というべきです。。
Aと言われたら、人によっては安心しきって物心両面にわたって何の準備もしない可能性が出てしまう。
けれども、
Bと言われたなら、それがいつかはわからずとも「最悪の事態を想定して」必要最小限であっても、何かしらの物心両面にわたる準備をする可能性が高くなるはず。
目指すべきは、後者でなくてはいけないはずで、それなくして危機管理について語って欲しくはないし、間違った目先のパニックを収めるためだけの、誰の助けにもならない「小手先の安心」など、百害あって一利なしの段階に入ってきているのでは?
大丈夫、じゃなく、大丈夫じゃないかもしれない
これは危機管理の基本中の基本です。
窓は閉めた、大丈夫じゃなく、窓は閉めたかもしれないけれど、もう一度確認しようぐらいがちょうどいい。
毎日、毎分、毎秒、いつくるかわからない天災に怯えながら生きるのは嫌だという人もいるでしょう。
でも、備えようと備えまいと来るときは来る。それが天災。
避けて通れないものなら、しっかり準備をして、あとは日々を淡々と有意義に過ごせばいい。
そうすれば、来なかったとしても日々の安心を得られた事実だけで十分であるし、万が一来た場合には、準備をしていたことで命が助かる可能性が高くなるかもしれない。
政府や御用地震学者はさまざまな「思惑」や「しがらみ」と無縁ではいられないでしょう。
しかし、そんな人たちの不如意な言葉で自分の守れるはずの命や家族や財産を失ってしまったのでは、それはそれで策がなさ過ぎる。
自分の身は自分で守る時代。
「津波てんでんこ」の言葉があるように、いつくるかわからない天災への心構え、自分たち個人レベルでもできることを今のうちにやることは、日常を平然と楽しく過ごすためにも非常に重要です。
ではまた。
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