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不要不急の目安とは!?新型コロナで外出自粛要請にどう対応!?

 

 

ころもです。

 

 

めまぐるしい世界の変化についていけない。

そう悲鳴をあげ、それが疲弊に変わっている人々がどれほどいるでしょう。

 

耳慣れない外出自粛に不要不急、ロックダウンにオーバーシュートといった横文字まで入れてしまうと、現状を把握するだけでも何だか気だるい気分になってしまうほど。

 

今週末などは東京都知事から不要不急の外出に対する自粛要請が出ているわけですが、人によっては「不要不急」の判断がわからない、何が不要で何が不急なのか基準を示して欲しいと思う人々も大勢いることでしょう。

 

当然です。

 

米国の研究によれば1日における人の決断回数は「35,000回」にものぼり、その無意識も加えた膨大な数の決断を支える判断基準もまた人の数だけあるということになる。

 

ひとくちに「不要不急」の外出自粛と言われても、そうなると、人によって境界線も判断基準も自ずと変わってくるということが予想され懸念されるわけです。

 

 

線引きはどこにあるのか

 

 

近畿大学病院感染対策室の吉田耕一郎教授いわく、

 

「日常生活に不可欠な外出以外は不要不急に当たる」

 

とのこと。

 

では、日常生活に不可欠な外出とはなにかというと、「日用品の買い物や通院など」であるといいます。

 

想像以上にざっくりしてますが、『ライフスタイル』(日経電子版)の3/14付の記事でそう解答していました。

 

では、

 

不要不急のもの、不要不急ではないもの、その2つを簡単に箇条書きにするとどうなるか。

 

 

〜不要不急の例〜

■ 趣味やレクリエーション

■ 日程が延期できる飲み会

■ 報告中心の会議のための出勤

 

 

〜不要不急に当たらない例〜

■ 日用品の買い物
■ 通院
■ 機密情報を扱う出勤

 

だいぶ大まかな指針が3つ挙げられていました。

 

しかしある意味このざっくり感が大事なのかもしれません。
細かくしすぎると、それをちょっとでも逸脱してしまうともう判断がつかなくなるということも起こりうるので。

 

「重大な岐路」「重大な局面」

 

と語った小池都知事も不要不急の基準に際し、

 

「きょうこの時間に必ず出て行かなければならないのか否か、別の日に変えられるかどうかが判断につながるのではないか」

 

と語り、そのうえで、

 

自粛すべき外出の目安を都が示すことに関しては、それ以外であれば全て大丈夫だと受け止められかねないと指摘し、「逆の行動を取らせてしまう可能性もある」と否定的な考えを示す。

ということで詳細にすることのデメリットについても触れています。

 

わかり易い例としては、

● 花見は「桜は来年もきっと咲く」ということで不要不急の外出に該当

● スーパーや薬局への生活必需品の買い物や通院は不要不急の外出に該当しない。

というもの。

 

不要不急の目安を知りたいと思う人々にとっては「ざっくりしすぎ」に思える定義でも、一人一人の背景や価値観や重要度といったさまざまな判断材料があることを踏まえれば、この「おおまかな基準」ぐらいが関の山というところでしょう。

 

埼玉県の担当者もこれに関しては、

 

「定義のある性質のものではない。個人の判断になる」

 

という考え方であって、目安づくりの難しさを表現していました。

 

個人的に気になるのは、

 

大丈夫そうな雰囲気なので街に出てみた、や、アルコールが好きなので夜の街で友人と飲んでるといった、自己中心的な考え方で欲望を吐き出そうとする人々の想像力の無さです。

 

この想像力の無さが無責任な行動を促して、終息させようとするその他大勢の人類の足を引っ張っていることに気が付かない。

 

生き抜こうとする人々を揶揄するような発言をツイッターで連発する芸人のような、優先順位がまるで見えていない人々による無症状感染の拡がりがもっとも懸念するところ。

 

経済が回らなければ人々が死ぬ、なるほどそれも真実です。

 

けれども、

 

その経済を回す人間が健康を害し、ウイルスに倒れてしまったら誰がその経済を回すのかという話にもなっていく。

 

経済は大事、そしてそれを回す人間の命はもっと大事。

 

生活を支える重要すぎる経済を復活させるためにも、医療崩壊を防ぐため「うつらない、うつさない」の意識を徹底し、重大な局面にあたって「外出をしない」という自分にできるせめてもの協力に徹したいと個人的には考えています。

 

では。

 

(出典・参考:NIKKEIプラス1 2020年3月14日付)