ころもです。
フィギュアスケート元世界女王の安藤美姫(31歳)さんがコメント欄に書き込まれる自身への中傷について怒りを滲ませたツイッターを更新し話題になっています。
定期的にこういうニュースを目にしますが、個人的に記憶に新しいところでは女優の石田ゆり子さんなども敏感ですね。
そう、
まさに「敏感」なのです。
では「敏感」とはどういうことか。
「感度がよいこと。わずかの変化でもすぐ感じとること」という意味になります。
わずかの変化でもすぐ感じとること
今回の安藤美姫さんの記事(デイリーニュース)では、
「ちょっと悲しい気持ちになった…残念な気持ちなった…私の思い…長くて書ききれないので興味がある方は添付を見てください」
という本人の言葉の一部でしょうが、書き出されています。
さらに、
「ちょっと言わせて下さい 別に自分の事、可愛いとか美人とか思ってないし、凄いとか特別とかも思ってない たまにコメント欄にいちいちネガティブなコメントしてきたり悪口書いてくる人いるけど なんで?」
に、
「“ぶす”とか“キモい”とか誰に需要あるの?とか 言えない事もいろいろ書き込まれる時ある 別に気にしてないけど自分が言われて嫌な事は人にしないって親にならわなかったのかな?他人にそういう事いう事で喜び感じてるのかな???」
という言葉も。
世界中の誰でもが読むことができ、その数だけ感想を持たれるのは必至のツールを使っていながら、
わずかな変化をすぐ感じ取る
自身の感性を全く振り返ることがない。
つまり自分自身を知らない典型。
今回のデイリーニュースに記事にされた安藤美姫さんの言葉をこうして読んでいると、まさしく、
”語るに落ちた”
感が否めません。
長くて書ききれないので興味がある方は添付を見てください
奇しくも自身でそう語っているように、発信したものに対するリアクションが「気に入るもの一色」だけにしたいと最初から思っているのなら「興味がある方」だけが読むことのできる発信の仕方を見つければいいだけのことです。
そして、
別に自分の事、可愛いとか美人とか思ってないし、
と発言してますが、本当にそう思っている人はこの言葉を言い返そうなどという発想すら持っていないもの。
反論せずにはいられないほど自分に自信があるのだなと思われても仕方のない、自意識過剰な方のヒステリーな叫びに聞こえてしまう典型的な反論の仕方にみえます。
また、
凄いとか特別とかも思ってない
という、本心とは確実に違うだろうなと推量させる、極端に自分を卑下する言い方もまた嫌味に映ってしまうでしょう。
冒頭に書いたように、フィギュアスケート元世界女王というタイトルは誰でもが獲得できるものではないし、事実すごいこと。
そういう客観的に評価を受けてきた事実に対し、不要に自身を過小評価してます的な言い方は逆効果で感じが悪いだけです。
好みで語られる分野の話じゃなく、客観的な事実ですから。
それに関する謙遜は嫌味に映るし、それが百歩譲って本人の本音だったとしても信じてもらえないだろうし、それが本音だったとしたら、おそらくそういう一等賞を人生かけて狙うような競技に興味を持つこと自体ないのじゃないでしょうか。
反論するために「心にもない」と思われるようなことを口にするからわけがわからなくなる。
大体において、問題の本質はそこじゃないですから。
“ぶす”とか“キモい”とか誰に需要あるの?
発言も完全に的外れです。
ここで需要という言葉を出してくる感性もおそらく世間に敵を作りやすくしてしまう思考のひとつかもしれません。
どんよりとした空を見上げ、うわ〜雨が降りそうでやだ〜。
と言葉を漏らす人は、その言葉に需要があるかどうかを考えて発しているわけじゃなく、率直な感想を口にしただけ。
同じことです。
人は批判となる対象が目の前に出されたことにたいし、言葉を放つもの。それが極端に賛否と区別されるだけで、いわば反応しているのです。
ここで勘違いしてはいけないのは、
批判というのは「批難とは違う」ということです。
批判とはそもそも「物事に検討を加えて、判定・評価をする」こと。
誰でもが読むことができるもの(物事)を使って発信しているなら、判定や評価をされるのはもはや「宿命」なのです。
賛否両論があることはまったくもって当たり前のことだし、賛同ばかりが世間の反応だと仮に信じていたのだとしたら、それは勉強不足としかいいようがありません。
往々にして賛否の「否」を許さない方々に共通するのは、そんなことをして何の意味があるの?
というワンパターンの思考のように思えるのですが、おそらく否定する方々の多くも、まさに怒れる発信者に対して「では何の意味があって発信するの?」と返したいのじゃないでしょうか。
発信しておきながら、それについてまわる「批判については許さない」と批難する。
批判を批難とみなし、それが許せず批難する。
やっていることがまるで同じですね。
シンプルなことです。
発信するからには人の数だけ反応があるし、称賛もあれば真逆のものもある。いたって当たり前。
褒めてもらえる言葉だけを聞きたいなら、誰もが読むことのできる発信ツールは使わず、日記にしたためるか、すべてに対してイエスと答えてくれると信じている仲間うちで楽しく意見交換なり写真公開なりをすればいいだけのこと。
価値観も人生観も美の基準もなにもかも違う背景の人たちに、ひとつの「物事」を見せるからには批判はつきものだし、そういった批判をもとめての投稿だとみなされても反論はできないということです。
記事の最後に、
「私は自分の生き方にまっすぐなだけ コンプレックスだっていっぱいあるけどありのままにSNSだって更新するしそんなありのままの自分が今の自分 応援してくれる人もたくさんいるしこんな自分を好きでいてくれる人だっている だからわざわざコメントしなくて心の中でつぶやいたらいいのに」
という究極の矛盾発言が掲載されてましたが、これまた墓穴を掘った感が否めませんね。
ありのままにSNSを更新することが問題なのじゃなく、ありのままにSNSを更新している人が「ありのままの反応」を受け入れないことに矛盾が発生してモヤモヤしてしまうわけです。
応援してくれる人もたくさんいるしこんな自分を好きでいてくれる人だっている
そうでしょう?
それでいいじゃないですか。
それとも、世界中の人が自分を応援し、好きでいてくれなくちゃ許さない、ヤダということでしょうか。
そういうことを言っているも同然のような矛盾が潜んでますが、おそらく自分を否定的に語る人々が存在すること自体が許せないのでしょうね。そう解釈されるような謙虚なようでいて傲慢な発言に受け取れます。
応援してくれない人がいるし、こんな自分を好きじゃない人もいる
と泣き叫んでいるようにも聞こえます。
応援してくれる人がいるということは同時に、応援してくれない人もいるということだし、好きでいてくれる人がいるということはまさしく、好きでいてくれない人がいるということを指し示しているのです。
それでいいじゃないですか。
誰からも好かれる人になんてこれまでタダの一人も出会ったことなどありません。
そう受け入れている人はいたって心穏やかで寛容です。
批判に強いのじゃなく、人間というものをよくわかっているということに落ち着くのだと思うし、自分を等身大以上に見積もらないという賢明さを持ち合わせているということです。
ではまた。
(出典元:9/11 デイリー)