ころもです。
もはや語るべきものが何もない。
そんな状況が麻耶さんの現状だとしたら、生き方そのものが間違っているのじゃないかと他人事ながら心配してしまいます。
とにかく麻耶さんのブログには「実態」がない。
生きている人間から感じる「息遣い」「生活感」、そういったものが一切割愛され、耳障りのいい、等身大以上の自分を見せようとするあまりの表層的な言葉の羅列と、本気で麻耶さんの将来を心配しているとは思えない盲目的なファンメッセージのみがあるばかり。
いっそのこと「バースデー数秘コバマヤ 365日」というタイトルで本を出版し、ブログは閉鎖したほうが今以上の悪評を買わずに済むのじゃないでしょうか。
口は災いのもと。
批判が怖いのに、批判を回避できない性質のブログをやめる選択肢を持たないというのは、やはりその批判以上の「美味しい何か」があるからだろうと、多くの人は勘ぐってしまいます。
でも、それは当然のこと。
あまりにも言動の不一致、矛盾だらけですから。
入学式については一切語らず、否、語れず!?
とにかく語りたいんですよ。
でも批判されたくない。
だからと言って語らずにはいられないんですよ。
なのであの手この手で「匂わす」しかなくなる。
そんなジレンマを感じる今日の麻耶さんブログ。
更新は09:37。タイトルは「しだれ桜 美しいなぁ」。
新生活スタートされた皆さま
しっかり眠れていますか?!何かと緊張しますよね、新しいことは
(出典元:小林麻耶オフィシャルブログより)
そんな冒頭から滑り出した、薬にも毒にもならない耳障りのいい挨拶をするわりには、読者登録をしなければ読めない「限定につぐ限定」更新の姑息さ。
言っていることとやっていることの矛盾が甚だしい。
昨日は姪っ子麗禾ちゃんの入学式だったと思うのですが、そのことについては一切直接的な言葉では触れていません。
でも、匂わすことはします。
尊敬している方から送っていただいた
お写真。お福分けです♡
(出典元:小林麻耶オフィシャルブログより)
このコメント下には青空を背景に、見事に咲き誇った枝垂れ桜の画像が3枚アップされていました。
尊敬している方、というフレーズは麻耶さんのブログに時々登場していますが、一体誰のことなのでしょう。
実在する人物だとしたら、なぜ名前を挙げることができないのか。
それとも「美しい桜の画像を送ったことは秘密にしてね」と口止めでもされているのでしょうか。
いつも不思議なのですが、頼まないのに写真を送付してくるのか、あるいは電話などで桜の話になって「うわ〜見たい!その桜の画像送って下さい」と尊敬するその方の手を煩わせてまで画像を送ってもらっているのか、どうにも不思議。
今年最初の桜ならまだしも、先日のブログでさんざん意味不明の桜画像をアップしていた麻耶さんが桜の画像を今さら欲しがるというのも不思議だし、今は頼まなくてもそこらじゅうに桜の花は咲いているわけだから自分自身が撮影すればいいだけのこと。
想像するに、このしだれ桜は「尊敬している方」ではなく、麻耶さん自身が撮影したものじゃないでしょうか。
麗禾ちゃんの卒園式の出席で世間からバッシングを受け、女性誌ではからかわれ、さすがに入学式については海老蔵さんや堀越家からブログでもコメントしないように自制を求められたという経緯があったのじゃないかと推察します。
でも「絶対愛」の伯母としては、ここぞとばかりに本当は入学式についても語りたい。でも関係者も見ることのできるブログで堂々と書くことは許されない。
奥の手として、入学式にはつきものの「さくら」というものを象徴として代わりに画像アップしたということも麻耶さんならあり得る。
桜パワー 届け〜
(出典元:小林麻耶オフィシャルブログより)
しだれ桜3枚の画像下にはそんな言葉も。
何かというと「お福分け」を口にする麻耶さん。
ブログ読者は常に自分より下、あるいは桜を自身の目で見ることのできない劣悪な環境のもとで生きているとでも思っているのでしょうか。
そんな意地悪なことを言いたくなるほど、「1秒の幸せ」や「お福分け」には本質的な優しさを感じることができない。
伯母さんの考える「絶対愛」の中身を知りたいですね。
その「愛」というのは何?
麻耶さんにとって大事なのは、海老蔵さんからどう思われるか。
その一点だけじゃないでしょうか。
本当に姪っ子甥っ子を絶対的な愛で包みたいなら、ブログアクセスのためとしか思えない、子供たちの人権やプライバシーをないがしろにした画像アップに嬉々として参加するはずがない。
参加して下さい、協力して下さいと頼まれたとしても、断り、またその理由と共にその危険性を依頼した相手に説法するぐらいの気概を持たなくては嘘でしょう。
この時代にどこで何をしているのかを、何が悲しくて世界発信しているのですか。
下駄箱に名前を書くのすらためらわれる時代に、誰にどう狙われるかもわからない幼子たちの居場所や服装や好きなものの情報をこれでもかというほどに披露する。
一体誰のためですか。
間違っても子供たちのためじゃないですよね。
ブログの被写体として「ちょうどいい」からですよね。
それが「愛」ですか。
絶対愛で包むって、そんなことからも子供たちを守れずに口にするだけ恥ずかしいですね。
昨日、4月5日のブログ「◆4月5日生まれの方&夢」タイトルはいつもながらのアメーバ限定。
ブログで誕生日祝いをさせてもらえることに喜びを感じている内容でしたが、それはそうでしょう。
批判と勝手に名付けた「まっとうな意見」の数々まで抹殺して、自らを称賛する声しか受け付けないのですから、ここで喜びを感じずに社会のどこで喜びを感じることができるというのか、本当に完璧な「井の中の蛙」状態ですね。
その日の誕生日だった方々は、おめでとうと言われることにそれは喜びを感じるでしょう。そして、それが誰であってもその人に「ある種の好意」を抱くはずです。
孤独な人は少なくないし、ましてやお誕生日にタイムリーに「おめでとう」という言葉を貰える環境の人ばかりとは限らない。
でも、麻耶さんのブログに読者登録しておけば、間違いなく麻耶さんからだけは当日もしくは遅れてでもHappy Birthdayの言葉は言って貰える。
それは麻耶さんじゃなかったとしても悪い気はしないはずです。
今回の限定があったからということじゃなく、前々から麻耶さんのブログから感じとっていた違和感の原因は、物事は表裏によって成り立っているのに、自分にとって都合のいい一面からしか世の中を見ようとしないところにあるのじゃないかと。
前向きに生きることは大事なことですが、成長期の子供たちのそばにいる大人の在り方として、悲しみや苦しみから逃れることばかりで日々を埋めてしまうのは「何かが違う」といわざるを得ない。
読者のお悩みに対して、そのどれに対しても「なんでも◯、なんでもオッケー」の連発だった麻耶さんを「前向きで明るい人」と呼ぶ人もいるかもしれないけれど、本当に明るい人はちゃんと強さも兼ね揃えているもの。
現実から目を背け、逃げる、それだけが主眼となっている人のことを「本当に明るく前向きな人」とはとても呼べない。
無償の愛どころか、見返りばかりを期待しているようにしか見えなかった、麻央さんが亡くなってからの約9ヶ月あまりの日々。
以前、海老蔵さんがブログで母親恋しさに泣いていた勸玄くんの姿を見て、「母親の無償の愛」が必要であることを悟ったような一言がありました。
あれは偶然出た言葉じゃないでしょう。
求めても得られない現実をそのまま口にしたのだと思います。
誰によって得られていないのか、それはここで言うまでもないですね。
ではまた。