ころもです。
加工しすぎの自撮り、そして敵を作りたがっているとしか思えない言動の連続を冷静に見ながら、もしかして「あのときの海老蔵さんのあの言葉は…」麻耶さんのことだったのかもしれない。
そう推察してしまいます。
昨年の11月27日。
海老蔵さんのブログ、「まったりとしてます」というタイトルの中にあった、あの言葉です。
名前を言えないのに掲載する意味とは
それは、こんな内容でした。引用します。
朝、友達が突発的に記憶を失った事から今日が始まりたまたま電話した事により発覚、これにて朝は予定全てキャンセルから始まりまして笑今までアタフタな一日です。しかしたまたま電話してそんな事になっていて私もなんとか調整がつけられる環境の日で本当に良かった。すごくそう思います。普段はしっかりしている人なのに探しに行って見つけた時地面に絵を描いてざわついていたので本当に驚きました、世の中なにが起こるかなにがあるかわからない事を改めて知りました。皆が平和である事を強く望んだ朝でした。
(引用元:市川海老蔵オフィシャルブログ「まったりとしてます」より)
この頃は海老蔵さんが麻耶さんのことをブログに書く際、「友達」と呼ぶこともあるとは知らなかったわけですが、後のブログを読んでいくにつれ、かなりの確率でそれは麻耶さんのことですよね、という対象に対しても、呼び名を「友達」と表記することがあることがわかってきたのです。
となると……、この「まったりとしてます」ブログの中に記載している「友達」という特定されていない人物の候補に麻耶さんが入っていても何もおかしくないのかと、こうなったわけです。
古い話です。今さらでもあります。
でも、「いのちの授業」での巡業なのに食物の話に終止する配慮の無さ、麻央さんへ近づこうとするあまりエスカレートするいっぽうの自撮り画像、便乗商法といわれてもおかしくない羽生結弦選手帰国騒ぎとなる渦中での、フォトスポットでのツーショット画像などなど…、例を上げればキリがないほどのはしゃぎっぷりに、違和感というよりは危機感すら覚えるのです。
そして、ふと、ほんとうにふと思い出したのが謎に包まれたままの、あの海老蔵さんの「地面に絵を描いてざわついていた」のくだりなんですね。
ず〜っとひっかかっています、これは一体何を言いたかったのだろうかと。
名前も言えない、読者に明かすこともない友達の話をなぜ、興味関心を持たれるのを百も承知で載せたのだろうと。
ただひとたび角度を変えてこの一件を振り返ったとき、本当に読者に無関係な人物のことだったら、ブログで告知しようと思うだろうかという疑問がフツフツと湧いてくるわけです。
名前は言わないし言えない。・普段はしっかりしている人なのに
・皆が平和であることを強く望んだ朝